松浦寿輝『青の奇蹟』

松浦寿輝『青の奇蹟』(みすず書房、2006年)

63のエッセイを収める注文原稿集。

「映画的身体の分類学」(114-122頁)は「映画によって表象される身体」(114)をめぐる考察。

このエッセイが注目するのは、身体が「単独のショットの内部に収まっているか、複数のショットに跨がりつつ分析と綜合が施されているかという違い」(117)。すなわち、ワンシーン・ワンショットによって表象される身体か、モンタージュによって表象される身体か。前者は持続と同時性(ショットの持続と同じだけの時間経過をわれわれは経験するということだろうか)、後者は分析(分断)と綜合によって特徴づけられる。とりわけ、ベルクソン的と形容される前者について、「裸の時間の剥き出し」や「息づまるような緊張」(117)といった記述は的確だろう。

松浦の議論は、ワンシーン・ワンショットの身体/モンタージュの身体という二項対立を提出するや、そういった図式を切り崩していくような事例をみずから挙げていく。文章に熱がはいっていくのも、こういった例外的事例の記述のように思われる。たとえば、モンタージュが施されているのにワンシーン・ワンショットのように見せる、「不自然な映像の連鎖」(116)から成るヒッチコックの『間違えられた男』(1957)。あるいは、もっとも紙幅が割かれる、ロバート・アルトマン。「こうした抽象的な図式に絶えず偏差を持ちこみ、概念の一般生の土台を掘り崩しつづけてやまないものが現実のフィルムの数々」なのである(122)。図式的な整理は個別的な作品によって裏切られる。

 もう一点ふと気がついたのだが、本書にはチェスと将棋(正確には将棋の観戦記)をめぐるエッセイが一つずつ収録されている――チェスの名手ウィルヘルム・シュタイニッツ(1836-1900)をめぐる「シュタイニッツの憂鬱」(108-113)と棋士にして観戦記の優れた書き手である河口俊彦をめぐる「「人生の棋譜」を読む人:河口俊彦(157-165)。いずれにおいても、「生身の人間」と「単なる知力の競い合いしか見ない抽象的かつ衛生的なゲーム性」(158)という対立を設けて、松浦は前者を擁護するかのようなポーズを見せる……かというところで(それは安易な身振りだろう)、またしても、こういった自家製の二項対立を突き崩すような存在として、題材となったテクストの細かな記述に移る。すなわち、河口俊彦による観戦記は、棋譜(むろん、様々な変化の符号による記述を含む)を通して現れる「人間の佇まい」(161)に関心を集中させているという。人間だけでも数学的なゲームだけでもない。ゲーム性を通して見出される、「人間」。

注文原稿の素材は、編集者などによって与えられるものかもしれない。その題材の意義を高めるジャンプ台として、そこそこ(あくまで「そこそこ」である)興味深い二項対立を設置する(チェス・将棋のそれは安直すぎる)、そして、そのジャンプ台を破壊する勢いで主題を取り上げる。こんな戦略が映画論エッセイとチェス将棋論エッセイに見えた。

(にしても、将棋のエッセイでは、アンチ羽生善治すぎる笑。そして、羽生先生、名人位復位おめでとうございます。)

 

青の奇蹟

青の奇蹟