『精神分析入門』第二部「夢」その1

精神分析入門』第二部「夢」の第一回として、第五講「種々の難点と最初のアプローチ」(128-157頁)と第六講「夢判断のいろいろな前提と技法」(158-182頁)を。

第二部に入って、フロイトの入門講義は、夢を主題にしていく。夢は錯誤行為と同様に「ありふれた、とるにたりない現象」(129)に見えるかもしれないが、「神経症研究の準備」として「意味をもつ」(128)ことを示すことを講義は目標としていくだろう。

夢の性質を考える「難点」として、フロイトは先行研究のレビューを行っていく。その一、睡眠中の外部刺激。音が聞こえる、など。その二、内部刺激。腸の状態など。その三、白日夢との類推。(外部刺激の話は、ベルクソンの夢の議論と共通である。『精神のエネルギー』収録)

これらの紹介・検討を経て、第六講、フロイトは夢を議論するさいの前提を打ち立てる。

一つ目、「夢は身体的現象ではなく心的な現象である」(158)。

二つ目、「夢をみた人に向かってあなたの夢はどんな意味をもっているのかときけばいい」(159)。

二つ目の前提についてコメントを加えておく。

まず、錯誤行為での議論と同様、「精神分析は謎の解決をできるだけ被験者に行わせる技法に忠実」(160)であるという技術的な指摘。

つぎに、この前提の前提といったものとして、「自分が自分の夢の意味を知っているということを知らないのであり、そのため自分が知らないと信じているだけ」(161)との指摘。この「知らないけれど知っている」という矛盾した状況は、催眠暗示の研究(リボー、ベルネームへの言及、164頁)をもって例示される。

同じような状況が夢についても当てはまるのでは、というのがフロイトの提案であり、その「知らないけれど知っている」をたぐり寄せるために採用されるのが「自由な連想のおもむくままに語って」(171)もらうという手法である。この「注意力の特別な配分」を必要とし、「熟考を排除」(172)するような技法(いわゆる自由連想法。この術語が出てこないのだが)は、ブント、ブロイラー、ユング(176)を参照しつつ提案される。

第六講はこうして技法が登場したところで終わり。

 

フロイト『精神分析入門』第一部「錯誤行為」

フロイト精神分析入門』上巻、高橋義孝・下坂幸三訳、新潮文庫、改版2010

本書は1915-17年の講義をもとに17年の出版。第一次大戦の真っ最中で、ところどころ、大戦への言及も見られる。

第一部「錯誤行為」を読んだ。構成は第一講「序論」、第二講「錯誤行為」、第三講「錯誤行為(つづき)」、第四講「錯誤行為(結び)」。

簡単なまとめ

「全く地味な研究からでも、大問題を研究する糸口がひらけてくる」(第二講、33頁)とのことで、錯誤行為から講義を始める。具体的には、言い違い、書き違い、読み違い、聞き違い、忘れること、が取り上げられるが、メインは言い違い。

こうした小さな問題を「徴候」(第二講、32頁)とみなして、そこから導かれるのは、力動的なこころのモデルである。結びの講義でフロイトはこうまとめている。

  [言い間違いという]現象を心の中のいろいろな勢力の角逐のしるしとして捉えること、すなわちときには協力し、ときには対抗しながら、ある目的を目ざして働いているもろもろの意向の現われとみたいのです。われわれは心的現象の力動的な把握を求めているのです。(第四講、103頁)

フロイトは一つの発話のうしろに「何かを言おうとする意図」と「それを抑えつける」意図を感知して、その二つの意向の衝突を「言い違いを起こす不可欠の条件」と見なしている(第四講、101頁)。「押さえつけられた意向は、語り手の意志に反して言葉となって口を衝いて出ます。語り手の承認したほうの意向の表現を変え、あるいはその表現といりまじって、あるいはこれと入れ代わって言葉に出てくる」(第四講、100頁)。これが言い違いのメカニズムである。

こうした力動的モデルは「互いに対決する意向の戦場であり闘技場」(第四講、120頁)とも言い換えられる。興味深いことに、この戦場には、いわば、抜け道のようなものがある。それが言い違いであった。「錯誤行為そのものを利用し、どんな道を通ってでも目的地に到達しようとする意図」(第三講、84頁)。

こころは、このようにして、相反する意図が並置される場とされる。すなわち、「矛盾するもの、対立するものから成り立っている」。したがって、

ある特定の意向の存在が照明されたからといって、それは、それに対立する意向の存在が排除されるということにはなりません。心の中には、相反する二つのものが共存する余地はあるのです。(第四講、120頁)

Ryan, Derek. Virginia Woolf and the Materiality of Theory: Sex, Animal, Life.

Ryan, Derek. Virginia Woolf and the Materiality of Theory: Sex, Animal, Life. Edinburgh: Edinburgh University Press, 2013.

Contents

Acknowledgements vi

Abbreviations viii

Introduction: Virginia Woolf and the Materiality of Theory 1

    Woolf, modernism, and theory 5/ Woolf, new materialism, and Deleuze 11

1 Materials for Theory: Digging Granite and Chasing rainbows 26

2 Sexual Difference in Becoming: A Room of One's Own and To the Lighthouse 58

3 Queering Orland and Non/Human Desire 101

4 The Question of the Animal in Flush 132

5 Quantum Reality and Posthuman Life: The Waves 171

    Intra-action and the entanglement of agency 174/ Naturalcultural phenomena 177/ Life and living 181/ Things, assemblages, and walking haecceities 184/ Pure immanence 192/

Bibliography 203

Index 220 [names, titles, and subjects]

 

Virginia Woolf and the Materiality of Theory: Sex, Animal, Life

Virginia Woolf and the Materiality of Theory: Sex, Animal, Life

 

 

Cameron, Sharon. _Thinking in Henry James_

目次記録。

Cameron, Sharon. _Thinking in Henry James_ Chicago and London: The University of Chicago Press, 1989.

Contents

Acknowledgements vii

1: Introduction by Way of _The Ameriacan Scene_ 1

2: The Prefaces, Revision, and Ideas of Consciousness 32

3: Thinking Speaking: _The Golden Bowl_ and the Production of Meaning 83

4: Thinking It Out in _The Wings of the Dove_ 122

Notes 169

Index 193 [names and subjects]

 

Thinking in Henry James

Thinking in Henry James

 

 

十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』

十川幸司『来るべき精神分析のプログラム』講談社選書メチエ、2008年

「20世紀はまさに精神分析の時代と呼ぶに相応しい時代」(8頁)だったとするならば(フロイトの『夢解釈』は1900年の出版)、21世紀の「来るべき精神分析」とはどのようなものであるのか。本書は「フロイトの基本構想を現代的な角度から展開し、彼の経験を深化」(14)させること、その構想のアップデートを図る一冊。

本書が暫定的なモデルとして採用したのは、「システム論的精神分析」なるもの。発達論、脳科学(可塑性)、オートポイエーシス/システム論の三つを下敷きとしつつ、感覚、欲動、情動、言語の四つの回路からなるシステムというモデルを提案する。

以上が本書全体の見取り図。以下、個人的に興味深かった箇所を引用。「書くこと」と「歴史化」について。

書くこと

私はこの書物で、自分が考えたこともないような地点にたどり着きたかった。人がものを書くということは、今の自分が考えている場所から出来る限り遠くにいきたいという欲望によるものではないだろうか。(6頁)

話すことと書くこととはまったく次元の違うことである。おそらくものを書くことで最も重要なことは、書くなかで、自分の考えていることが根本的に変わることであり、さらには自分自身が変わるということである。不思議なことに、書くことによって、私自身の臨床も少しずつ変わって行った。この本を書きながら、私はこれまでになく、分析家がものを書くことの意味を考え続けていた。(231頁)

この感覚は私でさえ共感するところがある。

書き出してみて初めて見える事柄は多い。書くことは一種の発見術であるから。

20世紀の精神分析

新しいモデルを提案するという目論見の一冊であり、その反動と言うべきか、旧来的な理論について、21世紀からの評価を本書のあちらこちらに見つけることができる。

たとえば、「時代の病」の変遷について。精神分析は、よく知られるように、ヒステリーの治療法として始まっている。その後、強迫神経症や不安神経症、抑うつ神経症の理論/治療法、さらに、60年代、70年代の米国では自己愛神経症や境界性パーソナリティ障害の治療法として展開していった(9-10頁)。著者はこの変遷を「人間」像の変遷と関連付けている。

つぎに、その変遷に関連付けられるのだが、ジャック・ラカンに代表される、言語論的精神分析の歴史化について。ラカンソシュールらの言語論をベースにして、フロイトの構想を練り直したが、ラカンによる言語論経由の(当時の)アップデートは、20世紀後半の人間(患者)が抱えた問題意識と結びついていたものだとされる。言い換えると、超時代的な、普遍的な人間の問題ではない。「主体と言語という問題設定は、20世紀後半の人間諸科学のいて先鋭化した巨大な問いである」(16)。それぞれの時代の分析家は、その時代において支配的な科学モデルに依拠しつつ、心的現象を把握しようと努めていたのだった(21)。

したがって、21世紀のアップデートとしては、ラカンの試みを高く評価しつつも、言語によってはさばきにくい主題、「言語との連接が乏しい局面」(17)――具体的には、恥という情動やイメージの分析など――があることを認めつつ、そうした問題も把握する枠組みを構築せねばならない。

話はやや飛ぶが、フロイトの性理論、とりわけその女性性の扱いに関する批判について。レオ・ベルサーニは、フロイトの理論が精神分析の臨床からのみ生まれたわけではなく、当時の生物学や性科学の知識を引きずっていることを指摘しているという(『フロイト的身体』青土社、1999年)。したがって、フロイトの性理論が批判されるのは、精神分析の内部からというより、精神分析の外部からであろう、とされる(40)。

羅列的な記述が続いてしまうが、『快原則の彼岸』については、その「エネルギー論的観点」(116)への言及が拾える。フェヒナーの恒常性の原理に基づく――人間の心的過程においては、心的装置の内部に取り込まれる興奮のエネルギー量が出来るだけ低く保たれるとされる――がゆえの理論的な矛盾が指摘されている。

最後、転移について、すでにシェルトーク&ソシュール精神分析学の誕生』などが指摘していることだが、メスメルの動物磁気から暗示、催眠という治療法との歴史的な接続が確認できる(本書はこれを情動的コミュニケーションの回路と読み替える)。フロイトはこれらの治療法を次第に遠ざけていくが、それは、治療者と患者のあいだに強力な支配関係が築かれてしまうためだった(182)。

以上列挙したような、精神分析を20世紀のものとして歴史化する記述は、同じく20世紀初頭の文学(モダニズム文学と呼ばれる)に関心のある私にとっては興味深かった。本格的な歴史的記述については、本書註釈に挙がっている書籍を参照するのがいいだろう。(上記『精神分析学の誕生』のほか、エレンベルガー無意識の誕生(上)』が挙げられている。)

 

来るべき精神分析のプログラム (講談社選書メチエ)

来るべき精神分析のプログラム (講談社選書メチエ)