バルザック、クリスティ、ドイル

21日の読書など。

バルザック「知られざる傑作」水野亮訳、岩波文庫、改版1965年、141-190ページ。

アガサ・クリスティー「検察側の証人」小倉多加志訳、『死の猟犬』、クリスティー文庫早川書房)、2004年、209-251ページ。

アニメ『放浪息子』第10話(DVD版)から第12話(最終話)まで。

コナン・ドイル「青の洞窟の恐怖」北原尚彦訳、『北極星号の船長:ドイル傑作集2』創元推理文庫、2004年、97-126ページ。

はるか上空、氷河に囲まれた北極海、洞窟の奥……と誰もいないところで一人で怪物と対峙する主人公がつづく。こうした外的な恐怖の対象が、たとえば、洞窟の奥底での極限状態(灯りがない)で見た幻想とでもなれば精神のなかにこそ、恐怖の対象はあるのだという、ジェイムズ的な恐怖小説になるだろう。

 

 

2014年4月期アニメ

4月期アニメのまとめ。

 

『ピンポン THE ANIMATION』:傑出していた。第1話、サブタイトル提示までの流れですでに圧倒された。

 

ご注文はうさぎですか?:最初の数週を見た時点ではここまでの作品になるとは思わなかった。第4羽(作画週)を経て、第5羽(バレーとバトミントン)で「鬼畜和菓子」が活躍するあたりで、この作品の楽しみ方が分かった。このキャラクターがこの作品のノリ(萌え絵で鬼畜ギャグ、しかし、日常性は壊れない)を体現しているだろう。

ほか、佐倉綾音のこれ以上高く(幼く)ならない声(第9羽アバン、作品タイトルはまさかの「呪い」)、内田真礼のかすれ声(とくに中終盤は良かった)、あの世界にあってさえ変な人扱いの青ブルさん、第10羽、coffee/green teaと言い合う場面での、口元だけに枚数をつぎ込み作画など。

 

ラブライブ!第二期』:序中盤の脚本は、率直にいって厳しい(音楽CDの販促とはいえ、MVで閉じるゴリ押しが多い)。アライズという先行者の存在があまりに魅力的で(手書きライブ作画)、どうやってこの存在を越えるかという点に関心が向かいそうになり、大会での勝ち負けはあくまでもオマケだということが見えにくかった。

しかし、期限付きのグループのありようが主眼であると明白になった終盤3週は、この作品らしさに溢れており、素晴らしい出来だと思う。ライブ(アイドル)のためのライブ(アイドル)、しかし、それでファンがついて来るというのは、一期終盤(廃校撤回後)を思わせる。第12話、アバンに抽選会を追いやって、本編では大会の詳細の描写はゼロ、前日の様子~ステージ上の彼女ら(&協力者)の描写に徹底。結果発表を待たずの二曲目というのも、この流れで納得。

二期冒頭での一気劇伴引用とおなじく、本戦一曲目はこれまでの楽曲との関連づけが嬉しい。一期オープニングを思わせる冒頭のギターフレーズ、無観客講堂ライブを基調とした衣装、見覚えのある振り付けの引用、そしてあの二曲目。出番直前の「いままで全部」という穂乃果の言葉そのもの。

ほか、個別コメントとしては、第11話(海)、無邪気KY巻き舌ハラショーの亜里沙、第12話、普通にサイリウムを振っているアライズのメンバー。

 

 『極黒のブリュンヒルデ:基本的には楽しんだ。カズミの出番が増えて、この作品の「らしさ」がよく分かった。たとえば、第10話なら、寧子の歌~空き缶キック~良太がメロディをなぞって追い打ち~というギャグが、「カラオケ」の一語でもって、最近の記憶さえ失われていることを見せる場面へと直接接続するところなど。

小鳥の加入までと比較して、奈波や初菜ら新キャラの入退場からが忙しい(ちょうど新オープニングになったあたり)というのはすでに言われていることだろう。

 

『彼女がフラグをおられたら』:ハーレム内の調和が素晴らしい。ヒロインらが協力してハーレムを拡張していく。第1話、茜(茅野)の走る声、「フラグ」概念のこじつけ的拡大、恵(花澤)のお約束、第7話、鳴(丹下さん)の一人芝居(死亡フラグと格闘からのちょろイン)の展開圧縮度、など。

 

一週間フレンズ。:屋上にせよ、自販機前にせよ、仲の良い二人は、この作品では横に並ぶ。

最終話、警察と藤宮父が会話にあがるや逃げ出す長谷(呼び捨て)、特殊エンディングでの藤宮さんの歌唱力(2コーラス目に本気を温存)、これまでの映像とともに全スタッフを再掲するのは、記憶が主題のこの作品らしい。

オープニングの水彩調がきれいだったが、長谷・桐山・山岸は横罫線の入った切り絵風に表現され、水彩調のレイヤーには馴染まない。これは藤宮さんの日記の罫線で、その横線がオープニング末尾のカットでは消え、長谷と藤宮さんは一緒の水彩調のレイヤー上に横に並ぶようになる……という展開が見える。

 

エスカ&ロジーのアトリエはウィルベル(瀬戸麻沙美)の適当っぽさが良い。マンガ家さんとアシスタントさんとはキャスティング良かった。シドニアの騎士は前半は映像(とくに重力)、後半は音響に惹かれた。陣形を組むと画面が映える。海苔夫のクズ週を見落としてしまったので詳しくは書かない。

『ハイキュー!!』は継続中、かなりの水準で安定している。合宿週ですごいきれいなマネージャーさんが三回くらい喋って驚いた。ダイヤのAも継続中で、薬師高校の登場までは安心して見ていた。この学校は、ほかの作品なら主役のいるチームかもしれない。野球留学を描くこととと雷市のような選手を魅力的に描くことが両立すればいいと思うが。

 

『城と目眩』目次

小池滋・志村正雄・富山太佳夫編『城と目眩:ゴシックを読む』ゴシック叢書20、国書刊行会、1982年9月

 

小池滋「はしがき」

I

野島秀勝「英国ロマン派とゴシック小説:開いた自然と閉じた自然」...11

高山宏「目の中の劇場:ゴシック的視覚の観念史」...35

鈴木博之「ゴシック文学と建築の復興」...93

井手弘之「現代イギリス幻想小説と<ゴシック>」...119

八木敏雄「アメリカン・ゴシックの誕生」...139

志村正雄「現代アメリカ小説におけるゴシックの裔」...174

 

II

石川實「ドイツ恐怖小説とゴシック小説」...211

私市保彦「暗黒の美学とフランス、あるいはフランスにおけるゴシック小説の影響と発展」...235

沼野充義「彷徨と喪神:ロシア文学におけるゴシック・ロマンスの系譜」...265

竹山博英「タルケッティとゴシック小説」...290

木村榮一「現代イスパノアメリカとゴシック」...310

高田衛「江戸期小説・幻想と怪奇の構造」...330

 

III

小池滋アイデンティティの事件簿:ゴシック小説と推理小説」...359

富山太佳夫「『修道士』の対比構造」...374

ジャン・B・ゴードン(志村正雄訳)「廃墟としてのテキスト:ゴシック意識の考古学」...390

篠田知和基「吸血の花:呪いの目、分身たちの不毛な性:ゴシック小説のテマチック」...431

山野浩一「サイエンスフィクションとネオゴシック」...447

池内紀「聖堂譚:エルンスト・フックスによる建築幻想」...460

 

城と眩暈―ゴシックを読む (1982年) (ゴシック叢書〈20〉)
 

 

コナン・ドイル「茶色い手」

コナン・ドイル「茶色い手」西崎憲訳『怪奇小説日和:黄金時代傑作選』ちくま文庫、2013年、111-139ページ。

ちくま文庫のジャンルもののアンソロジーは充実している(品切れで入手の難しいものも多いが!)。最近編まれた怪奇ものから、ドイルの一編を。

莫大な遺産を相続した医師が書き手。この短編はその書き手(語り手)による、二重の報告書のような形式を取っている。第一に、この短編は、その相続の経緯を説明するために書かれている。そこで報告されるのは「手」を失った霊を鎮める経緯であるが、第二に、語り手は心霊現象ともいえそうな出来事の報告を行う。その出来事と心霊研究(psychical research)との関連が個人的な研究テーマとして気になった。そのつながりはつぎの一節に明白である。

 わたしは自分がほかの多くの神経科医と同様、異常な現象にたいしてはやはり多大な興味をいだいていると言ったように思う。以前、わたしは心霊研究会の友人たちと、幽霊屋敷で一夜を過ごすのを目的とした委員会を作っていたことがある。(邦訳119頁)

 こうした出来事について、心霊研究(科学的なアプローチ)的に問題のないかたちでレポートすることが、語り手にとっては遺産相続の手続き(司法的にといえばいいか)としても必要だった。The Society of Psychical Research の Proceedings に掲載されているレポートの形式やレトリックと比較してみたいところだ。

 

怪奇小説日和: 黄金時代傑作選 (ちくま文庫 に 13-2)

怪奇小説日和: 黄金時代傑作選 (ちくま文庫 に 13-2)

 

 

松浦寿輝『青の奇蹟』

松浦寿輝『青の奇蹟』(みすず書房、2006年)

63のエッセイを収める注文原稿集。

「映画的身体の分類学」(114-122頁)は「映画によって表象される身体」(114)をめぐる考察。

このエッセイが注目するのは、身体が「単独のショットの内部に収まっているか、複数のショットに跨がりつつ分析と綜合が施されているかという違い」(117)。すなわち、ワンシーン・ワンショットによって表象される身体か、モンタージュによって表象される身体か。前者は持続と同時性(ショットの持続と同じだけの時間経過をわれわれは経験するということだろうか)、後者は分析(分断)と綜合によって特徴づけられる。とりわけ、ベルクソン的と形容される前者について、「裸の時間の剥き出し」や「息づまるような緊張」(117)といった記述は的確だろう。

松浦の議論は、ワンシーン・ワンショットの身体/モンタージュの身体という二項対立を提出するや、そういった図式を切り崩していくような事例をみずから挙げていく。文章に熱がはいっていくのも、こういった例外的事例の記述のように思われる。たとえば、モンタージュが施されているのにワンシーン・ワンショットのように見せる、「不自然な映像の連鎖」(116)から成るヒッチコックの『間違えられた男』(1957)。あるいは、もっとも紙幅が割かれる、ロバート・アルトマン。「こうした抽象的な図式に絶えず偏差を持ちこみ、概念の一般生の土台を掘り崩しつづけてやまないものが現実のフィルムの数々」なのである(122)。図式的な整理は個別的な作品によって裏切られる。

 もう一点ふと気がついたのだが、本書にはチェスと将棋(正確には将棋の観戦記)をめぐるエッセイが一つずつ収録されている――チェスの名手ウィルヘルム・シュタイニッツ(1836-1900)をめぐる「シュタイニッツの憂鬱」(108-113)と棋士にして観戦記の優れた書き手である河口俊彦をめぐる「「人生の棋譜」を読む人:河口俊彦(157-165)。いずれにおいても、「生身の人間」と「単なる知力の競い合いしか見ない抽象的かつ衛生的なゲーム性」(158)という対立を設けて、松浦は前者を擁護するかのようなポーズを見せる……かというところで(それは安易な身振りだろう)、またしても、こういった自家製の二項対立を突き崩すような存在として、題材となったテクストの細かな記述に移る。すなわち、河口俊彦による観戦記は、棋譜(むろん、様々な変化の符号による記述を含む)を通して現れる「人間の佇まい」(161)に関心を集中させているという。人間だけでも数学的なゲームだけでもない。ゲーム性を通して見出される、「人間」。

注文原稿の素材は、編集者などによって与えられるものかもしれない。その題材の意義を高めるジャンプ台として、そこそこ(あくまで「そこそこ」である)興味深い二項対立を設置する(チェス・将棋のそれは安直すぎる)、そして、そのジャンプ台を破壊する勢いで主題を取り上げる。こんな戦略が映画論エッセイとチェス将棋論エッセイに見えた。

(にしても、将棋のエッセイでは、アンチ羽生善治すぎる笑。そして、羽生先生、名人位復位おめでとうございます。)

 

青の奇蹟

青の奇蹟

 

 

『近代文学現代文学 論文・レポート作成必携』

近代文学現代文学 論文・レポート作成必携』別冊國文學學燈社、1998年10月

国文学の論文作法本。

東郷克美「近代文学現代文学 研究の動向」6-13頁

1・「作品論」の季節、2・「作者」から「読者」へ、3・テクスト論のアポリア、4・再び「作者」の方へ

安藤宏「作品論/テクスト論の進め方」Ⅰ・アプローチの基本14-24頁

1・「作者」とは何か、2・テクストとコンテクスト、3・「作品論」び原点、4・「テクスト論」の流れ、5・研究に「新」「旧」はない、6・「作者」と「語り手」と「登場人物」、7・語りの顕在性、8・語り手は変貌する、9・言説を相対化せよ

紅野謙介「社会・文化的なアプローチ:メディア論を軸に」Ⅰ・研究の見取り図 59-64頁

1・文学現象の研究、2・言説研究と批評性

海老井英次「論証はどのように行うか」84-91頁

「論証」の実際、原拠やモデルのあるもの / 証言や日記、書簡による「論証」 / 内容理解による「論証」 / 作品論的「論証」、その他 / 「ものの本」の問題

近代文学現代文学論文・レポート作成必携

近代文学現代文学論文・レポート作成必携

 

 

 

 

『精神分析入門』第二部「夢」その2

だいぶ読み進めてしまった。第七講から第十二講まで。

第七講「夢の顕在内容と潜在思想」では、自由連想(183)、無意識(184)、抵抗(188)、夢の顕在内容(196)、潜在思想(196)など重要語句が一気に導入される。事例も多いが、理論構築の講義。

第八講「小児の夢」では、子どもの見る夢を取り上げつつ、「夢を引き起こすものは、つねに願望でなければならず、憂慮や計画や非難ではありえない」(212)ことが説明される。願望充足の講義。

第九講「夢の検閲」は夢の行う歪曲を「検閲」と呼ぶ。

ほか、興味深い点として、「心的生活の中に無意識的な意向があると仮定すれば、意識的な生活の中でこれと反対の意向が支配的であるからといって、それは無意識的な意向がないと言い切るだけの証明力をもつ事実ではない」(240)、「心的生活の中には対立的なもろもろの傾向、すなわち矛盾の共存を容れる余地があるのでしょう」(240)といった指摘があった。

第十講「夢の象徴的表現」は、性的な事柄に関する夢の対照表現のリスト化。大抵が性器の象徴になってしまう。臨床上の事例にぶつかって、それを既存のモデルでさばくことが出来なくて、したがって、自己批判を重ねてモデルを練り上げて行く……という思考のプロセスをある程度垣間見せるフロイトの論述方法がここにはない。

「ある対象がつねに別の対象の代わりに据え置かれることを可能にする諸対象間の思考関係、比較対照、ほかでもない無意識的知識」は「そのつど新たに作り上げられるものではなく、すでに出来上がっているもの、最終的に完成され終わっているもの」(276)という。この講義では、当時の「神話学、人類学、言語学民俗学」(275)が露骨に参照されるが、モダニズムの時代の原始的なものへの関心がここにも見出されるが、「人類普遍の」といった傾向のある議論で、集合的無意識まであとちょっとというところだろう。

第十一講「夢の作業」では、夢の歪曲として、圧縮(285)、移動(289)、思想の視覚像への翻訳(291)を取り上げる。理論的には核となる講義だろう。

ここでは、圧縮作用が「同一の乾板のうえにいくつもの写真を撮影」(286)したかのようと言った比喩がまず面白い。当時の心霊写真のトリックと一緒。

また、思考の映像化についてもいくつか面白い指摘が。たとえば、人物や具体的事象は「用意に、しかもおそらくはかえって上手に絵で翻訳」出来るのに対して、「抽象的な言葉や、前置詞のような不変化詞、接続詞[「なぜ、だから、しかし」(294)]などのような思考関係」(292)などは映像では示すのが難しい、「「否定」の表現、少なくとも「否定」の明白な表現が、夢の中には見つからない」(297)という指摘。

第十二講「夢の分析例」は事例集と言っていいだろう。